ブログを書くツール

最近、WordPressで無料テーマを使って、ほぼ毎日ブログを書いている。

 

それで、分かったのは、

このHatenaBlogはとても使いやすいということ。

余分な労力が要らない。

 

ただし、HP、ポータルサイトをブログ以外のコンテンツを含めて

作るには、このHatenaBlogは物足りない。

 

ブログは、基本ここで書いて、

そのなかから、他の自作Webページに転用するのが

今のところ、

ベストの方法か?

身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ-200529

身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ-200529


「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」の意味と由来とは?類語も紹介 | TRANS.Biz https://biz.trans-suite.jp/37750

言葉は、日々変化している。
本来の意味は、年月とともに変化し、
もともとの意味とは違う使われ方(ある意味間違い)
をしていく場合がある。
言葉とはそういうものである。

これから書く内容は、たぶん誤用だけれど、
ぱっと思いついたタイトルなので、
そのまま使うことにしよう。


きっかけの本
『還暦からの底力―歴史・人・旅に学ぶ生き方 (講談社現代新書)』(出口治明)の感想(3レビュー) - ブクログ https://booklog.jp/item/1/4065149878
出口さんの本、何冊か読んだけれども、毎回
何かしらの気づきを与えてくれる。
いくら、同意できる内容だったとしても
私が出口さんになれるわけではない。
だから、吸収して、咀嚼して、アレンジして
自分風に血肉かするのがいい。

p19
高齢者は「次世代のために働くこと」に
意味 が ある。

というくだりがある。
文脈からすると、道徳的に、倫理的に、
というのではなく、
純粋に 生物学的に 自然の摂理としてという
意味 だろうう。

老人として、社会資本を
ただ 自分のためにだけ
使い切るのではなく
「種」(全体として)として なにが最適解か考えて
行動する。

逃げ切ろうと するのではなく
共生する事。

「逃げ切るのではなく、共生」


この
「次世代のために働くこと」

「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」が繋がった。

「身を捨ててこそ」は、悲壮な雰囲気もかもしだす、
でも、ここでは 自分の得だけ考えて行動すると
結局、損する。
共生をたすける行動をすると
一見 損しているみたいだけれど
結局は 得する いや、
幸せになる。


最近、院卒の優秀な女子に仕事を教えている。
個別の個性の違いもあるが、
明らかに世代の違いを感じる。

彼女は、結構、複雑な処理を教えても
ほぼ、一回でマスターしてしまう。
確かに、素晴らしいのだが
面白味もない。

彼女とどう向き合うか?
それが 最近の課題だ。
学びの機会だ。

彼女を教える事になったのは、
単なる偶然ではなく、必然。
そう とらえて 思索してみる。

相手のためにと思って しても
それが 相手にとって ためになるか分からない。
逆の場合もある。
だから、その時々で対応していくしかない。

だから 面白い!

 

 

 

 

 

 

 

分光器開発を再び思い出してみた

以前にこのブログでもPMT用の分光器開発についての雑記を書いた。


滋賀の分光器設計者の自宅兼会社へ出張したのが2005.01.14。
試作機が出来たのがおそらく2007年。そして製品化認証が2011.04。

 

こうして振り返ってみると約5年間、集中的に分光器開発、製品化に携わっていたたの分かる。2011.04には吸光ユニットのプロトⅠが完成しているから、実際はもっと短かったのだろう。

 

こうやって振り返ってみると、今自分に残っているのは”暗黙知”という部類の価値なのだと思う。

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分光器

 

 

http://lingmu0788.hatenablog.com/entry/20180101/1514796736

その次は、開発が進んでいなかたPMT用分光器の開発を前任者が退社するに伴い、これも又、お前がやれということになり、イチから分光器を勉強して、ついには本質を習得して、基本光路シミュレーションを理解して製品として完成させた。

 

http://lingmu0788.hatenablog.com/entry/2019/01/27/212536

以前、個人で光学設計会社をしている京都の会社へ出張したことがあった。計算につかっているPCはかなり旧式のNEC製のモノで、光学光線追跡シミュレーションがとても遅かった。会社で使っているZEMAXと比べるとおそらく100倍以上のスピード差があったように思う。しかし、計算している内容は大差ないので、ただ結果を得るまでの時間が大きく違うだけで、結果自体は同じになるだろう。
その時、ベテランのこのエンジニアは、計算している間に考える時間がある。描画されてくる光線をみて考えることができると話してくれた。
事と事の間にある間は無ではない。文字どうり「間」という余白なのである。条件反射的に発する言語ではなく、「間」で醸成された言語化を目指したい。

ベーシックインカムって?

ベーシックインカムが実施されて生活にこまらなくなっても、無報酬で働く人はたくさんいると思います。

↓ 以下、発展形
さらに、極端な例として生活するのにお金自体が要らない社会を考えてみるとどうでしょうか。
たとえば、普通の生活用品、電気、住居等はある水準までなら全て無料。
マーケットでの買い物、外食、学校、映画、交通機関 すべてが無料。
だから、今回のコロナ騒ぎみたいに物の買い占めは無意味。
食堂へ行っても、食べれるだけ食べてOKとなる。
そうなると必要以上にモノをため込もう、食べ物を欲張って食べよとする人自体が極端に減るだろう。

レストランのバイキング形式の食事って、ついつい余分に取りすぎてしまう。
でも、無料で好きなだけ食べられるのなら、そんなことはしないだろう。

キッザニア」という子供向け職業体験のテーマパークみたいのが話題になった。
大人版の「キッザニア」なんてどうだろうか。
仕事体験をしたいだけの無報酬の仕事。
その報酬はただ、人から「ありがとう」と感謝されるだけ。
雑な仕事をすれば信用をなくして仕事が出来なくなる。
というか、仕事を依頼する人が無くなる。

それでも、仕事をしたい人はたくさんいると想像する。

こいうなると、かつての共産主義国みたいに労働意欲が無くなって
サービスの質がおちてしまうだろうか?
25年位前に中国へ行った時は、公営の店ではぜんぜんやる気の無いのを目の当たりにしたからな。
確かに一国二制度以後の中国はサービスの質が上がった。
これは資本主義経済の競争原理が働いた結果だろう。

人類は進歩を止められない。
たとえ、食うことに困らなくなっても、なにか作っては壊し、作っては壊しするのだろうな。

今日のダーリン-2020.03.15 記録

 

 

 

糸井重里が毎日書くエッセイのようなもの

03月15日の「今日のダーリン」

・不自由は安心感。自由は不安。
 昔むかしの時代から、人は空を見上げてさ、
 「鳥はいいなぁ、自由に空を飛べて」と憧れてきた。
 それは、いまを生きてるぼくだって思うことだ。
 ドローンというものが世に現れて、
 空を飛ぶって、ずいぶん簡単なものなのねと思った。
 あれで、荷物を運ぼうとしているのだから、
 人を乗せて飛ぶことだって、すぐにもできそうだ。
 ドローンか、そんなふうな乗り物で、
 自由に空を飛べるようになったとしても、
 それはなかなか社会では認められにくいだろうと思う。
 これはぼくの想像なのだけれど、
 空を飛ぶというのは、他のことに比べて、
 おそらく、自由過ぎるのである。
 汽車も電車も、鉄道という線路を走る。
 その線路の上しか走らないという不自由を前提に、
 「どこへでも行ける」とか言っちゃってるわけだ。
 「ぼくらは線路も要らないもんね」という自動車だって、
 他人の家のなかを突っ切るわけにはいかない。
 なんやかんや言うたかて、道路を走ってるわけやないか。
 これまで、自由そうに見えていた陸上の乗り物に比べて、
 空を飛ぶドローンには、まったく道がない。
 高さも低さも、方向も、速度も、知ったこっちゃない。
 だからこそ、不安で怖いのだろうと思う。
 すべて自由である空を飛ぶという行為には、
 無数に近いくらいの「規則や規制」を背負わせないと、
 あっちでガチャン、こっちでドスン、おまけにボカン、
 みたいなことになってしまいそうだと考えるのだろう。
 「まったく自由」みたいなものには、
 人間は、たぶんとても弱いのだ。
 だから、線路といわず、道路といわず、
 制約するものに従って、安心をキープしていたいのだ。
 いまこの時期の、人びとのこころには、
 「自由は苦しい、制約を決めてくれ」という願いが、
 そこはかとなく漂っているような気がする。
今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
でも、鳥は空に道路がないことを、怖いと感じてないよな。
 
 

自由とは?

今日の気づき

今日、A装置で測定をしていた。
製品を置くところがないので、いつものA装置の上に製品を置いて測定している。
確かに、A装置の上には「物を置かない」と書かれている。
でも根拠があるのかは、なはだ疑問に前から思っていた。
だから、いつも無視してA装置の上に製品を置いて測定していた。

決められたことに、何も考えずに従っていればOKという風潮に
ますますなってきている。
危うい、本当に危うい! と感じた。

見回り隊の人(風紀委員みたいな人)からの注意だろう。
それを受けて上司が注意したのだろう。
上司に、「根拠は?」と尋ねたら貧弱な回答があった。
私は上司よりも10倍はこの装置について熟知している。
なので、その根拠は間違っているとハッキリわかる。

ルールさえ守っていれば安泰。
ルールさえ周りの人と同じように守っていれば
理由など無関係に良しとされる会社は
とても危うい。

でも、今 社会もそうなっている。
例えば生命の危機に遭遇した時、そう決まっているからという理由で危険な方を選択したら
どうなるのだろうか?
だれも責任はとってくれないし とれるわけもない。
神様じゃないんだから!

会社という「村」では、理由に関係なくルールを守る人が「善」で守らない人が「悪」と決まっている。

昨今の企業の不祥事も、会社の現場の人は分かっていてやっているか、問題という事すら
気づかずにやっているのだろう。

真実の「正義」は無いとしても、最低限のモラルは自然にもっておきたいものだ。
しかし、ある社会における「普通こうでしょう!」ということが=モラルになった社会
では境界線が消えてしまって見えない。

よくデッサンをしているときに、あるがままに対象を観て、自分の直感に従うように言われる。
デッサンが間違ているか合っているかは、直感は既に知っているということだ。
でも、もろもろの雑念がそれを歪めてしまうので、あるがままに観ることができない。

いろいろな意味で、あるがままに観るための訓練を積んでいく必要があると痛感した。

 

 

 

●new2_日々のヒント-191017b2020年03月16日 11時17分 より
・面白そうな人達のSNSをウオッチしていりと、とても興味深い面白いタメニなりそうな情報が多く発見できる。

でも、それに満足して 振り回されていないか?
デッサンの時 ちょっと引いて眺めるような習慣を取り入れないと 危うい!

こうして 立ち止まって 換考する合間を作ることが大切。

 

「見る前に跳べ」 W.H.オーデン。いいね!-200223

過去の日記から、「跳べ」で検索したらヒットした。

何故、Swallow Blueを描いたのか、ちょっと分かったような気がした。

 

●日々のヒント-170612

・2017年07月07日11時47分

うーむ。

「見る前に跳べ」 W.H.オーデン

自分で自分の人生はデザインできる。全ての人が幸せにあれるユートピアがこの世界。

但し、なれるけで、なっていないのが現在の世界。

 

この世界は、自分とは関係ない、もしくはあっても、自分の世界への影響力は限定的で、殆ど

無視できる位の影響力しかない。 というのが常識であり、今までの人生の教訓。

赤ちゃんの時の自分とは明らかに違う。異なる。

 

自分が変われば、自分が考えれば、自分が行動すれば、無限に世界は変化可能だというのが真実。

他人、周りの環境は関係ない。

全てが、自分「lingmu0788」発で動いている世界だから。

他人、環境はパラレルワールドとして、自分のこの世界とは交わらずに多重的に独立して成立している。

 

∴ ゼロサムではなく、この世は、全ての人が最高に幸せになる可能性に満ちている。

 

要は、それを私が受け取るか受け取らないかだけである。

 

お金は分かりやすいしちょーう便利だけど、真実をくもらせてしまうことが多い。

人の悩みの殆どは金と人間関係であると言われている。

 

ARTLEAF2018 Swallow Blueより

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Swallow Blue