「現代美術」ポロック以降 東野芳明 著を読んで-180401

「現代美術」ポロック以降 東野芳明 著を読んで-180401

勉強会の教材になっていたので読んでみた。時間がないので斜め読みして読了。表題になっているジャックスン・ポロックと唯一知っていたマルセル・デュシャンの部分は全部読んだ。
現代美術というピカソ、シュルレアリズムのダリくらいしか知らない。
この本は主にアメリカ在住の世界から集まってきたアーティストを著者がその当時ピックアップした作家の批評で構成されている。そもそも美術批評を読むこと自体初めてでとても難解だった。
本p102
「P102
美は沈黙 なり〜〜
芸術作品は言葉では語れない、というのは、とんでもない誤解だ。」東野芳明

p184
「自分自身を決して繰り返さないという欲望」デュシャン

これってかなりストイックで、苦しい道だと思う。

p201-202  遠野さんの体験:デュシャンの「彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁」を観て。
アメリカへ行くたびにぼくはニューヨークからフィラデルフィアまで、この作品だけを見るために汽車にのった。〜
ぼくは一日中、ぼんやりと、座りつづけていたが、一体、何が分かり、何が見えたとのかというと答えようがない。これほど、すべてが見通しがきいてすべてが謎の世界、すべてが透明ですべてがかたくなにぼくを拒んでいる世界があったであろうか。

https://goo.gl/FrkqP1

 

1965年初版の本だから、かなり古い。自分が生まれた当時の本を読むことはあまりない。図版が幾つか載っているが、画質はわるいしモノクロなのでとても分かりにくい。当時の印刷技術からしたら、頑張ったほうなのかもしれない。今作るなら、2000年頃はやたマルチメディアをもっと進めた2D、3Dイメージを含んだマルチメディア本(もはや本ではないが)の体裁がいいだろう。
近い将来、本物に近い質感をバーチャルで疑似体験できることが出来るようになるだろう。しかし、物質としての存在感は実物に体をそこに移動させて鑑賞することには勝てないだろう。しかし、将来それをも超越する、人間の感覚をチートするハックするテクノロジーが到来するかもしれない。
その時、どれだけ、「芸術作品を言葉で語る」という行為が有効であるか疑問である。言語の几帳性、誤謬はまぬがれない。しかし、批評家の考えを伝えるには言語しかないかもしれない。これは人間のジレンマである。

 

個人的には、以下の絵画が印象にのこった。

ホワイト・ライティングと呼ばれているらしい手法。

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マーク・トビー 「ブロードウェイ 1936」