佇まい

書いておかないと忘れそうなので、ここに留め置く。
 
デッサン教室に通い始めてはや一年半が過ぎた。毎日の通勤途中に見る何気ない風景、通学・通勤の人々を観察していると、その「佇まい」に心動かされることがよくある。デッサンを始めてから、観るという行為を意識的に繰り返すことにより、多少なりとも、美的感覚が洗練されてきたのを感じる。
そもそも、なぜデッサンを始めたのか? 単純に子供の頃絵を描くのが好きだったから、また描いてみようということだったと思うが、本質的には内的なイメージ、感覚をなんとか外化したいという欲求の現れなのではないかと考えるようになってきた。
ということで、今朝:2018.05.09の通勤途中にふと、いままで何となく考え続けてきたけれど、上手く言語化できないでいた事が少し言語化できたので書いてみたい。
キーワードは「佇まい」。この言葉がふと浮かんできた。日本語の語彙は豊富でいいなと感じた。
「佇まい」は、細かいイメージではなく、もっと、もわーっとした場の雰囲気で、言語化が難しい、その人それぞれの内面にいだいているイメージ、雰囲気。
それを、どうやって表現するか?
これは、作者(表現者)が意図せずに、巧まずして、滲みでてくる何か。
娘から、「パパの絵は、全部パパに似ている」と言われた。自分にはよく分からないが、きとそういうものなのだろう。
「佇まい」は、外にあるのではなく、自分の中に作っているイメージ。しかし、その外の「佇まい」が他の複数の人々の心に作用して何らかのイメージをもたらす。優れた芸術作品はそういう「佇まい」を持っている。
一言でこれに近い言葉というと「クオリア」かもしれない。
古今東西、芸術に取り組んだ人達が総じてもっていた欲求は、このクオリアをいかに外化して留めおくか、又外化して他人と共有できるか、とうことではなかったか。
おそらく、クオリアを完全に他者と共有することは不可能だと思われるが、なんとかそうしたいという願望が人間にはある。
例えば、ゴキブリは一般的に気持ち悪い嫌われ者扱いされている。しかし、ゴキブリが気持ち悪いのではなく、ただ気持ち悪いと感じる自分がいるだけである。花を見て綺麗だなと感じるのも、花が綺麗なのではなく、ただ綺麗だと感じる自分がいるだけである。
又、別の例を上げれば、物理的時間と人間が感じる内的な時間は同じではない。楽しい時は速く過ぎ去るし、苦しい時間はとても長く感じるというように。この時間に関しては古くはベルクソンが思弁的に考察したが、物理的、科学的な解明は私が知る限りまだまだ謎が多い。アインシュタイン特殊相対性理論にしても、それが真理か否かほんとうの意味では分からない。
私が知る限り、この分野の研究は脳科学では「クオリア」として扱われているらしい。茂木健一郎の「脳とクオリア」を以前よんだことがあるが、詳しい内容は忘れてしまった。ただ、科学的アプローチもまだまだという印象をもっている。
ということで、当面の私のデッサンを勉強してたどり着きたいゴールは、「佇まい」を外化して表現すること。でも、他人に見せて拒絶されるといやな思いをするだろうな〜、とも考えてしまう。でも、本質的に他人とクオリアを完全に共有することはできないから、いかしかたない。それでも表現したいという、止むにやまれぬ何かが人間にはある。しかしながら、内面のクオリアを外化するのは一筋縄ではいかない。