映画「モリのいる場所」とバタイユ

映画「モリのいる場所
名優、山崎努樹木希林南極料理人の監督、沖田修一。シネマイーラで、6/30に鑑賞。殆ど席が埋まっていた。殆ど熟年世代。
モリと秀子の老いた夫婦の仕草が良い。自分が老いてみないと分からない味がでていた。
正岡子規の病床六尺を思い出した。狭いに庭に無限の広がりを感じて尽きない興味、驚き、感動.......。
同じ日にバタイユの「死者」を読んだ。正常と狂気の狭間。エロス。人間はその歴史の中で獣から人間になていった。その過程でつくってきた様式、規範:性交、陰部を隠す、生死、諸々のタブー。そして、それらに抗おうと苦悩する人間。その矛盾に満ちた生物。自らがつくり、自らを縛り、それに悩み苦しみ、それらに坑がい、破壊し、またつくる。子供が、延々と泥団子を作っては壊し、作っては壊す様に似ている。
非合理の極み。AIには分からないだろうな〜。
これらのの制約、リミットから外れた白痴、痴呆症、精神障害、精神破綻者。これらの人々はもはや、正常と呼ばれる人々には理解不能な世界である。
この正常と異常の狭間、キワにいる人々が、その狭間で芸術に昇華するから、正常な人々が惹かれる。例えば、草間彌生の日常を垣間見ると、常時襲いかかる自殺願望に抗しながら、窒息しそうになりながら作品を作り続けている。
キワ、際、極。
画家「熊谷守一」も、穏やかに見えるけど、普通といわれる人から見れば、ある種の狂気といえる。
やはり他人にどう見えようと、自分に生きることが幸せであり、生まれてきた意味なのだろう。