デッサンするということ-190109

例えば、ポットがある。
生まれた時には、ポットは知らない。成長していく過程で沢山のポットを見る、触る、使う、聞く、読む。
その経験の蓄積で、自分の中に「ポット」という概念が生まれる。
そうすると、「ポット」に類似した物を見たときに脳のなかにその蓄積から生まれた「ポット」という概念が
関連づけられて瞬時に頭に浮かぶ。さらに、物すらなくても、頭で思うだけでイメージが浮かぶ。
これは、単にオブジェクトとしての「物」以外にも拡張されていく。
それが、その人の思考、世界観。
ある本に、「リアルな世界と各個人の世界観とどちらが広いか?」という問いがあった。
答えは、リアルな世界。この世界が本当に「リアルな世界なのか?}という根本命題はこの際横に置いておく。
各人、自分の世界観がリアルな世界だと思って生活している。だから、自分と違う世界観に出会うと驚き、ある人は
拒絶反応を起こす。
話がそれてしまった。本題の「ポット」に戻そう。
例えば、目の前のポットをデッサンする時のことを考えよう。
「ポット」からの反射光が目の網膜に届いて像を結ぶ。視神経を通じて脳に送られる。そして脳は過去の記憶から
形成された「ポット」の概念を引っ張て来て、その概念とその像を見比べて対象を理解しようとする。
だから、実際には見合ていないポットの裏側まで想像して理解(いや、誤解か?)している。
そうすると何が起きるか?
リアルな物と自分のかなの概念とにズレが生じる。
だから、デッサンでは「実際の物をよく観察して、自分の既成概念との違いを常に確認して描くこと」が必要になる。
逆に、だまし絵ではないが、実際には見えていない世界をも鑑賞者に暗示させて脳であたかも見えているように想像させるテクニックが必要になる。
例えば、透明なガラスを通して対象を見ていたとすると、ガラスの反射が殆どない場合、目にはガラスは映っていない。
しかし、脳はそこにガラスが挟まっている微妙な像の特徴をとらえて、又は既存のイメージを参照することによってガラスがあると認識している。
だから、デッサンは写真とは違う。目は見えないものを見る。見えなくても、あたかもそこにあるように見ることができる。

そう考えると、この世界はまだまだ未知で溢れている。
インターネットが発達して、日々生成される情報量はある説では「現代人が1日で受け取る情報量は、江戸時代の人の一生分」らしい。
しか、逆にガラクタな情報ばかり溢れてしまって、むしろリアルから遠ざかっているのかもしれない。
以前、森博嗣氏が「黎明期のインターネトには宝の山だったけれど、いまはガラクタばかるり」、たからインターネトの情報は見ないというような趣旨の話をしていた。明らかに情報を発信する側の真摯さ、熱量が黎明期の方が高かったわけだ。
これに相通ずるのが、 宇野常寛の提唱する「遅いインターネット」の考えだ。
自分自身、SNSで非難中傷された経験はないが、それはかなり痛い経験らしい。

Google: 日の情報量は有史以来の情報量を超えた

2020年における全世界のデジタルデータ量は?
 https://www.otsuka-shokai.co.jp/media/byline/numbers/20160926.html
最近聞いた話で一番びっくりしたのは、現代人が1日で受け取る情報量は、江戸時代の人の一生分って話。
 https://twitter.com/ozawakaoru/status/935901528946126848
現代の日本人が1週間に受け取る情報量は、 17世紀のイギリス人の一生分に相当するのだそうです。 17世紀っていうと、江戸時代の初期。 イギリスでは、だいたいシェイクスピアの時代
 https://wakaba2525.hamazo.tv/e5997084.html