記録としての手紙-190901

記録としての手紙-190901

トーベ・ヤンソン」Tove Jansson
ボエル。ウェスティン 著 を読んでいてふと思った。

人間の思考は電気のように瞬時に動作しない。人間は人間としての生理的なスピードとリズムで活動しているから、本質的に身体が進化しない限りテクノロジーが進化しても変わらないのだろう。

 

トーベの膨大な手紙等の資料の閲覧を許された著者が書いたトーベの伝記的本。
例えば、ゴッホも多くの手紙を書き残しために、後世の研究者がその人生について色々と考察できる。

現代においてはメールやLINEの交換記録が手紙の代わりの資料になるかもしれない。しかし、個人的な手紙に書く内容とこれらの方法では書き手の心理は違ってくるだろう。それは、日記と第三者が読むことを想定した手紙との違いにも似て、似て非なる物だろう。

そう考えると、後世の人達が生前のある人物について理解する手がかりは、手紙が一般的だった時代に比べると少なくなっているような気がする。

もし、私信としての手紙を書く機会があれば、内容はよく吟味して、より思いを込めた文章になるはずだ。

昔、海外の友人と情報交換しようとしたら、エアメールが一般的だった。郵送にかかる時間も非常に長いし、手紙の重量により送料が高価になるから、エアメール用の軽い薄い用紙に、細かい字で出来るだけ沢山の文字を書こうとした。だから、さらに手紙を書くという行為に特別感がプラスされた。

これらのことから考えると、今はとても便利になって、世界中の何処に相手がいようと瞬時にメッセージを交換することができる。
しかし、そこで交わされる内容は昔にくらべてとても軽い薄っぺらなものになっているような気がする。

人間の思考は電気のように瞬時に動作しない。人間は人間としての生理的なスピードとリズムで活動しているから、本質的に身体が進化しない限りテクノロジーが進化しても変わらないのだろう。